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【パリ通信】Vo9

[更新日] 2016年11月14日

パリ通信
長谷川潔の偉業 11・13・2016
 かつて、パリ左岸のモンパルナスに近いアレジアに住んでいた頃、モンスーリー公園までが散歩コースでした。
アレジア周辺は、モジリアニなど画家が多く住んだことで知られ、私が住んだアパートも天井が6メートルの吹き抜けで、もとはアトリエだったそうです。
 その散歩コースに実は、日本の有名な銅板画家、長谷川潔が住んでいました。それを知ったのは、今から10年くらい前でした。マニュエル・ノワールと呼ばれる古い銅板技法を復活させ、それを芸術の域にまで高めた超人的存在の長谷川潔のアトリエの前を、知らずに散歩で通り越していた自分の無知に愕然としたものです。
 日本では昨年、軽井沢現代美術館で長谷川潔展が開催され、大きなところでは横浜美術館でも2006年に大規模な展覧会がありました。日本では、あまり知られていない長谷川潔ですが、かつては、堀口大学が自分の本の挿絵を依頼していたほど知られた版画家でした。
 1980年にパリで亡くなった長谷川ですが、彼はフランスで文化勲章を授与され、記念コインまで作られた最も評価された日本人芸術家のひとりです。そんな長谷川が、私の散歩コースに住んでいたことが分かり、彼もモンスーリー公園を散歩したことがあっただろうと勝手に想像して、心ときめかせたものです。
 明治生まれの長谷川は、黒田清輝から素描を、岡田三郎助、藤島武二から油彩を学び、1918年に版画技術習得のためにフランスへ渡り、89歳で亡くなるまで1度も日本に帰国しませんでした。その間、2つの大戦時には藤田嗣治をはじめ、多くのパリ在住の画家たちが帰国したにもかかわらず、長谷川は地方を転々としながらもフランスで制作を続けました。
 長谷川が一つ恵まれていたのは、父親が裕福な銀行家だったことから、画家活動を継続できた側面もあります。しかし、それも戦時中は極貧生活を強いられ、それでも長谷川はフランスに住み続けました。彼は「パリは芸術に温かい目を向けてくれた」と語っています。
 アレジアは今、すっかり秋も深まり、芸術家の町の面影はあまり残っていません。アレジア教会は、イスラム過激派によるテロを警戒しており、武装警官や兵士の姿も見かけます。第2次世界大戦中、長谷川が絵の題材を求めて散策中、一本の樹木が自分に語りかけてきたという逸話が残っています。彼はその樹から自然の価値を教えられたといいます。
 1972年、フランスの国立貨幣・賞牌鋳造局から長谷川のメダルが発行されました。日本人では葛飾北斎、藤田嗣治に次ぐ3人目の芸術家でした。
長谷川は、多くの偉大な芸術家を産んだ古き良きパリを知る人物であり、彼の偉業は、フランス美術史に深々と刻まれていると言えるでしょう。

絵解き 「ニレの木」 長谷川潔 銅版画 1941年
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「パリ14区アレジアにある聖ピエール・モンルージュ教会」
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